原始仏教が初めて文字に書かれたのは紀元前一世紀頃から紀元前後といわれ、まさに大乗仏教の興起するところであったのだ。 仏教聖典 現存する仏教聖典を、その成立順序にしたがって大別すると、原始経典、大乗経典、密教経典の三つのグループに分けることができる。 仏教; 国・地域 : 主にアジア ... 輪廻・転生および解脱の思想はインド由来の宗教や哲学に普遍的にみられる要素だが、輪廻や解脱を因果論に基づいて再編したことが仏教の特徴である。 生きることは苦であり、人の世は苦に満ち溢れている 。そして、あらゆる物事は原因と結果から基づいてい Name * Email * (公開されません) Website. 宗教哲学(しゅうきょうてつがく、英語:philosophy of religion)とは、宗教の存在意義や本質を究明する哲学の一分野である。 18世紀末ごろにヨーロッパにおいて成立した。特定宗教の信仰内容を学問的に基礎づけることを目的とする神学や、もろもろの宗教現象を学際的な方法によって実証的 … 古代インドに興り、中国・朝鮮を経て日本に伝わった仏教は、日本独自の思想が加わりながら多くの宗派が生まれ、インドとも中国とも異なる独自の仏教となりました。 仏教徒他の宗教との最も大きな違いは哲学的な側面でしょう。 仏教では、因果応報という言葉があり、結果には必ず結果がある因果の道理を教えています。 コメントはありません。 down コメントを残す. この記事では、「宗教」と「哲学」の違いを分かりやすく説明していきます。「宗教」とは?「宗教」とは、人知を超えた存在への信仰により、安定や安らぎが得られると考えられる存在です。仏教では仏様、キリスト教においてはイエス・キリストを含む「三位一体 主な違い :道教と仏教は、アジアで生まれた二つの哲学的、宗教的伝統です。 道教と仏教は同様の目標を持っていますが、それらは個人の生活、社会、価値観、文化、環境そしてさらには宇宙についての彼らの信念、実践そして見方において完全に異なります。 思想・哲学・宗教の違いを図解して整理してみました。最大の違いは「価値や存在の根拠」を何に求めるか、ということです。真理を追求するという共通目的を実現するアプローチ・過程において明らかな違いがあることを認識することが、哲学・宗教を学ぶ第1歩となります。 はじめに本項は仏教を理屈でかつ分かりやすく解説することが目的です。専門用語は可能な限り使わず、具体例に即したものにします。仏教哲学とは仏教の哲学的な解釈です。対象となる仏教および解釈する哲学によってその内容は変わってきます。本項では一般的な 主な違い :両者の間には多くの類似点がありますが、それらの間の主な違いは、儒教は倫理的で哲学的なシステムであるのに対し、仏教は後継の宗教であるということです。 仏と孔子は紀元前6世紀のアジアの哲学者で、世界中の人々の苦しみを終わらせる方法を模索していました。 ・仏教の源流は古代インドの哲学ウバシャッド哲学 ・仏教の教えは、「無常」と「中道」と「慈悲」 この記事をシェアする. こんにちは。サンガ編集部編集長の佐藤由樹です。 このたび、藤田一照先生、山下良道先生、 ネルケ無方先生、永井均先生、4人の共著 『哲学する仏教―内山興正老師の思索をめぐって』 を刊行しました。 『哲学する仏教―内山興正老師の思索をめぐって』藤田一照/山下良道/ネルケ無方/永井均(サンガ、2019年) 本書は禅僧・内山興正老師の50年前の思索について それぞれが順番に行った「リレー講座」を元にした一冊です。 … twitter. facebook. どういう事か 量子力学 の話を交えて説明しよう。 仏教と仏教哲学の違いは何ですか? 仏教は宗教仏教哲学は仏教の底流にある哲学、あるいは仏教という宗教を考察対象とした哲学だいたい、こんなところだと思います。 他の宗教と比べて仏教は哲学的な面が強いと言われていますがその理由を教えてください。また仏教と哲学の違いを説明するときどういった点があるか教えてください。仏教においては、世界の創造主である梵天も相対的な地位にあり、縁起つま 日本の主な仏教の宗派は「大乗仏教」であるとよく説明されますが、その大乗仏教とはどのようなものなのでしょうか? 道教と仏教の違いとは、その違いを説明するのはかなり複雑です。道教の中に仏教が取り入れられていますので、この点では共通項は見られますがその他は異なります。仏教は宗教ですが、そもそも道教は宗教というより思想哲学といった方がいいような気がします。 ナマステ、インド在住のKome(@chankomeppy)です。 仏教を通じて日本に伝わったインド哲学の思想は数多い。その中で有名なもののひとつに「輪廻(りんね)」がある。 「いいことをしたら天国に行ける」 「悪いことをしたら地獄に落ちる」 「天国」と「地獄」は輪廻思想からきており、 … その前に、西洋哲学・科学と、東洋哲學・思想の違いについて。 17世紀にデカルトが「我思う、故に我在り」として、<我>という「意識(思考)」を、これ以上説明のつけようが無い、疑いようのない理想的主体と見なすことで、以後、「意識」について深い考察をすることは無くなりました。 主な違い :道教と仏教は、アジアで生まれた二つの哲学的、宗教的伝統です。 道教と仏教は同様の目標を持っていますが、それらは個人の生活、社会、価値観、文化、環境そしてさらには宇宙についての彼らの信念、実践そして見方において完全に異なります。 今回のテーマは「仏教と哲学」です。昨今、お寺を会場にした哲学の勉強会やトークイベントが、しばしば開催されているようです。おそらく、仏教と哲学の近さが意識されているからでしょう。, どう近いのでしょうか? 人間や世界の本質について、じっくりと考える点で近いのです。もっとも、哲学の目的が、その考えを徹底して突き詰めていく点にあるのに対し、仏教の場合は、あくまでもその考えが「覚り」や「救い」の役に立つか、といった点にあるのは、大きな違いかとも思います。, とはいえ、人類がこの地球上で行っている実に多様な営みのなかでは、両者はまるで「家族」のように類似した活動であると言えます。そして、その類似性について自覚的な人たちの書く本は、仏教がこれまで蓄積してきた、「じっくり考える」テクニックの現代的な可能性を、鮮やかに示してくれています。そうした本を、いくつかご紹介させていただきます。, 現代における「考える僧侶」の代表のような著者の、最新作です。まず、世界の思想には、仏教と仏教以外しかない、という大胆な断定からはじまります。すなわち、ただただ人間の「実存」のありようの考察に徹する仏教と、「実存」に加え何らかの「超越」を設定する仏教以外の思想ということです。, 仏教において「実存」は、「無常」「無我」「縁起」等の観点から、その実体性を否定すべきものとして理解されます。実体がないのにもかかわらず、「自己」にこだわることで、人は苦しむというのが基本的な了解です。ところが、その仏教も長い歴史のなかで、「仏性」や「本覚」や「浄土」や、なんちゃら如来などの「超越」的な実体を、自らの思想のなかに取り込んできました。, これら、仏教のオリジナリティを薄める「超越」は、いかなる思想的意味を持っているのか。この重大な問いに対する、批判的な探究の作業を、インドの釈迦から中国仏教をへて日本の鎌倉仏教まで、仏教史を大づかみに振り返りながら試みたのが、本書です。, インドの大乗仏教は、竜樹などを除いて、おおむね仏教の思想に「超越」性を加えてきました。中国の禅や浄土教で、この傾向がますますはっきりします。日本では、もともと「ありのまま」の思想が大好きなところに、最澄や空海が持ち込んだ密教によって、その「ありのまま」自体が「超越」性を獲得してしまいます。法然は、そこに一神教的な「超越」の思想を導入し、日本仏教史上の「革命」を起こしますが、そのラディカルさは後世にはうまく受け継がれませんでした。, こうした見取り図のもと、著者はしかし、親鸞と道元に、「超越」とも「ありのまま」とも異なる、仏教の本来的な思想の、日本的展開を見て取ります。超越性とつながらない「無意味」な念仏をただ唱えるという境地に達した親鸞と、「仏」は行為のなかにしか存在しないとして、「成仏」を修行のなかに解体した道元。この両者の思想は、形而上学ではなく、形而「外」学であると著者は指摘します。このあたりがおそらく、本書のクライマックスでしょう。, なお、四半世紀ほど前に、一部の仏教学者が「批判仏教」という、本書と似たような作業を既に行っています。ただし、本書はそうした学問的な議論とは異なり、あくまでも著者個人の「実存」的な問いに基づく、思想の冒険といった感触です。既存の学問的なルールにはこだわらず、仏教の核心とは何かを、自前の概念を用いてとらえようとする。その試みは、本書の帯にあるとおり、まさに「仏教史の哲学」と言えるでしょう。, 哲学は西洋発の学問で、仏教は「東洋思想」ではあれ、哲学ではないという考えが、わりとあると思います。本書は、そうした発想を強く否定し、仏教を哲学としてとらえます。そして、そこに西洋哲学の議論と対等に渡り合える、どころか、西洋のそれを超えた哲学のあり方を読み取っていきます。, 「存在」「言語」「時間」など、いずれも哲学の大きなテーマです。これらについての考察を、著者は仏教の教義や論説に基づき展開します。たとえば、心とモノをひっくるめて、その実体を否定する存在論や、言語の解体のなかから言語の果てを追究していく言語論、時間の流れをすべてこの絶対的な「今」に集約していく時間論など、仏教が世界や人間をどう理解してきたのかについて、さまざまな教説を引きながら説明していきます。, あるいは、「関係」の哲学として究極的に深められている仏教を、西洋のディープ・エコロジーの哲学にはるかに先立つ、環境問題の解決に貢献する理論として検討しています。いわば応用哲学的な側面からも、仏教の教説の奥深さを見直しているわけです。, こうした著者の解説を読んでいくことで、仏教のいろいろな教説の概要を学べるとともに、哲学的な思考方法のトレーニングにもつながります。実に有益な一冊です。また、本書は仏教の哲学的な再解釈の試みとしても優れています。たとえば、仏教の代表的な思想の一つである唯識の教えを、著者は、「識」という心の問題ではなく、唯「事」と解釈します。そして、唯識は主客二元論を超えた「事的世界観」を示していると論じます。とても刺激的な見解です。, なお、このように仏教を哲学として理解していくスタイルは、著者の研究対象の一つである、西田幾多郎と鈴木大拙の宗教哲学の影響下で行われています。実際、本書の「絶対者」についての章では、西田による「無の絶対者」の哲学の意義が強調されています。, 仏教と哲学の関係について考えた先人たちは、すでにけっこういるわけです。本書は、そうした先人たちが築き上げてきた伝統を引き継ぎながら、著者の豊かな学識を活用して、仏教の哲学的側面はどういうところにあるのかを、とても平明に記した好著と言えます。, ②の本と似たようなタイトルで、問題意識も重なる部分はありますが、書かれている内容はだいぶ異なります。基本的にはタイトルどおりの仏教入門書で、仏教の基礎知識を幅広く学べます。一方で、その知識の整理の仕方に、著者のオリジナルな思想がよく見て取れます。そして、その背後には著者の哲学への強い関心があります。, 西洋哲学は、19世紀のニーチェや、20世紀以降のポストモダン思想などによって、哲学の自己破壊と再生を続けてきた。このダイナミズムに、仏教も学んでいくべきではないか。それが著者の考えです。日本人の思考に根深くインストールされている、伝統思想としての仏教を、西洋哲学にならい現代に通じるかたちで再生する。それが著者のもくろみです。, 著者いわく、仏教は「無我=無自性=空」を説き、おおむねポジティブではなくネガティブな世界像や論理を提示する傾向があります。竜樹のような、否定に否定を重ねる論理クレーマーが、妙に尊敬されたりしています。そのため、仏教は社会を支える思想としては弱いところがあり、実際、しばしば他のポジティブな宗教(ヒンドゥー教や儒教や資本主義など)に圧倒されてきました。仏教は「過渡期の思想」になりやすいと、著者は鋭く指摘します。, 他方で、やたらとポジティブになる場合もあります。たとえば、生まれたままの人間やありのままの自然を、「仏」として全面的に肯定したりします。生きているうちは仏教とほとんど関係のなかった人間が、死んだ後にやすやすと「極楽浄土」で暮らせるようになったりもします。きわめてのんきな発想ですが、しかしこのポジティブ感ゆえに、日本に仏教が定着したことの意味は、よくよく考えるべきだろうと著者は述べています。, あるいは、『法華経』に説かれる永遠の仏や、浄土教の阿弥陀如来など、現代ではおおむね非科学的でファンタジックな存在を、どう考えたらよいか。その一つの回答として、これらは私たちと「他者」との関係を深く問い直すための何かなのではないかと、新鮮な考察の糸口を与えてくれます。こうしたロジックの展開の裏側にも、著者の西洋哲学の学びが確実にあります。, 日本という場にこだわって、仏教で思考することの可能性を多彩に示してくれる、最高の入門書ではないかと思います。, 先に、仏教と哲学の関係について考えた先人として、西田幾多郎に言及しました。その西田が「日本の哲学者」として大西祝とともに高く評価したのが、清沢満之です。清沢は、明治時代を代表する仏教者でもありましたが、その生涯と思想について、コンパクトにまとめたのが本書です。清沢についての本は、ほかにもたくさんありますが、特にその哲学について初心者にもわかりやすいよう明快に論じた著作としては、これが随一でしょう。, 清沢は、仏教と哲学が交わる道を真摯に歩んだ人物です。まだ西洋哲学の翻訳書や解説書の乏しい時代に、哲学書をものすごく熱心に読み込み、ひたすら考えを深め、これを自らの宗教哲学を創り上げるための素材としました。彼にとっては、この哲学的な探究と、仏教者としての信仰が、互いに切り離せないものとなっていました。じっくりと考えることなく信仰を受け入れることはできないと、とても真面目な態度で仏教に向き合っていたのです。, 本書で詳しく解説されるとおり、その宗教哲学の根幹をなすキーワードは、「有限」と「無限」です。有限な存在であるはずの人間は、ときに有限性を超えた次元への思考に誘われる。なぜか。人間が本来的に、その無限なるものとのかかわりのなかで存在しているからだろう。いかにしてか。自己の内面を見つめることで、そこに無限への扉を見つけることもあれば、無限からの働きかけによって、それに気付くこともあるだろう。では、無限に接近した人間は、どうなっていくのか。そこから新たな生き方や倫理が切り開かれていく・・・, こうした清沢の哲学は、やがて、西田幾多郎らの日本哲学において別のかたちで継承され、あるいは、哲学的な思考を好む後続の仏教者たちに、大きな影響を与えていきます。仏教と哲学の交差する場所を、日本で最初期に体験し、そこからかなり興味深い哲学的な実践を行ってみせた、清沢満之という人物。その生涯と思想は、これからの仏教と哲学の関係について考えていく上でも、豊かな示唆に富んでいます。, 明治期にはじまった仏教と哲学の対話ですが、その現代における最先端的な試みが、本書に記録されています。日本の大乗仏教(とりわけ禅)と、東南アジアや欧米で人気のマインドフルな瞑想を組み合わせた〈仏教3.0〉を模索する、藤田一照氏と山下良道氏の名コンビ。この二人が、永井均氏という、現代日本で最もストレートに哲学している哲学者と、全力で語り合った本です。, 永井氏は、きわめて独創的な〈私〉の哲学を探究しています。この世界には何百万種類もの生き物がいて、何十億人もの人間がいるのに、なぜ、この、これが、私なのか? という問いを核心とする哲学です。自分の身の回りや広い世界には、それぞれの「私」がいるよね、という話ではありません。なぜか、何の根拠も無く、ここに、〈私〉が存在しているという謎をめぐる探究です。, 何を言っているのかよくわからない人は、本書か、あるいは永井氏の別の本を読んでください。いずれにせよ、そんな超当たり前でいて超根源的な問いを深めている永井氏が、健康上の理由などから瞑想をはじめ、その実際的な効果を実感し、やがて、藤田氏と出会い、意気投合したことから生まれたのが、本書ということになります。, 非常に面白いのが、上記した永井氏の〈私〉の哲学が、藤田氏&山下氏が考える〈仏教3.0〉の思想と、言葉遣いはだいぶ異なりながらも、おおよそ同じ景色を見ながら実践されていることが、本書から伝わってくることです。〈仏教3.0〉では、瞑想をいくらやっても仏教の正しいものの見方がわかっていないとダメ、ということで大乗仏教を改めて見直そうとしているのですが、その取り組みが、永井氏の哲学と驚くほど共振しているのです。, その共振ぶりのもと、仏教の「無常」や「無我」といった、単純な説明だと「すべては変化する」「いつまでも続く独立した私なんで存在しない」のようになる、あまり面白くない話を、哲学的にどう鍛え直していったらよいかが議論されます。あるいは、自己と他者との関係や、死の意味が、仏教と哲学を行き来しながら、深く深く問われていきます。, 仏教のアップデートには、やはり哲学の視点や知見が必要だ。そう確信させてくれる快作です。, 以上、哲学との関係で仏教を「じっくり考える」ための本を紹介してきました。どの本も、「ありがたい法話」とかにはない新鮮さがあって、仏教にあまり関心のない読者にも、グッと迫ってくる言葉が少なからず含まれているかと思います。, 哲学は「概念の創造」だという定義がありますが(國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』岩波書店)、仏教の場合も、やはり、常に新しいコンセプトを創っていくことが求められると思います。そして、そうした創造的な営みのためには、おそらく、ひとりひとりが「じっくり考える」時間が大事になってくるのではないでしょうか。, 仏教書のレビューを趣味とする京都在住の研究者。さまざまな本の紹介を通して、仏教の魅力や、仏教を通してものを考えることの面白さを伝えていきたいと思います。, 彼岸寺は仏教とあなたのご縁を結び、誰もが、一人ひとりの仏教をのびのびと語り、共有できる、インターネット上のお寺です。. だがこれらの 定義 を本当の意味で理解するのはかなり難しい。. 釈迦が最初に教えを説いたのは、たった5人の弟子でした。そこから仏教が始まり、釈迦が80歳で亡くなるまでにバラモン教を凌いでインド最大の宗派へと成長しました。 しかし、釈迦の死後、弟子たちは大混乱に陥ってしまうのでした。例えばこんな些細なことが決められません・・・ 1. 思想・哲学 2018.12.15 lismile. 「仏教のアレ」運営してるお坊さんです。禅とか修行ってそろそろアレじゃない?って思ってます。, 仏教のホント話してもおこらないでください。べつに仏教が流行らなくてもいいとおもってます。. hatenabookmark. 現代における「考える僧侶」の代表のような著者の、最新作です。まず、世界の思想には、仏教と仏教以外しかない、という大胆な断定からはじまります。すなわち、ただただ人間の「実存」のありようの考察に徹する仏教と、「実存」に加え何らかの「超越」を設定する仏教以外の思想ということです。 仏教において「実存」は、「無常」「無我」「縁起」等の観点から、その実体性を否定すべきものとして理解されます。実体がないのにもかかわらず、「自己」にこだわることで、人は苦しむというのが … 科学、哲学、宗教 の違いなんて簡単に分かると思える。. それらも西洋の論理に慣れた現代人から見たらつまらないものに見えるでしょう。, 私はひじょうに若いころから仏教というものに興味を持ってはいたが、よく理解できないところの多かったナーガールジュナの『中論』と道元の『正法眼蔵』を別にすれば、少なくとも理解できる仏教書を読んでその内容に感心した覚えがない。, (中略)仏教書にはこの種の馬鹿げた(幼稚な)教説が多く、多少とも知性と思考力を持った読者を想定しているとは思えなかった。, 仏教を宗教ではなく哲学として興味を持とうとする人は、その内容の「下らなさ」に驚愕するかもしれません。, そして、仏教を実践してきた人たちはその「下らないもの」に慣れきってしまっているので、いかんせん従来の文脈から外れた語りができなくなります。, みんなの日常に仏教が親しみやすくあるように、サブカルなどとつなげて仏教を語ることです。, もう一つは、現代的な文脈で仏教の核心をど真ん中で捉えようとし、他者と語ろうとする試み。, その意味で、仏教を哲学的・科学的に鍛えなおす、というのはこれからどんどんやられるべきだと思います。, 山の高さと裾野が比例するように、仏教に精通する人と仏教にかかわる人が増えることも比例するのです, 上記で永井均さんは仏教の教説を「幼稚」としていながら、なぜ彼自身が仏教に対する興味を失わなかったかといえば、実践にあると言います。, それでも私が仏教に対する興味を失わなかったのは、坐禅と瞑想の実践を通じてであり、単純そうに見えるこの実践には、複雑そうに見える(が実はつまらない)仏教の諸教説を超える深い意味があるに違いないと感じ続けてきたからである。, これからの仏教は実践まで含めた教説(語り方)の根本的な見直しが求められるでしょう。, そして、(これまでもそうであったように)従来の勢力から反発を受けることは免れないと思います。, 例えば、永井均さんは「真我=無我」ということを言っておられますが、「無我」を生命線としてきた従来の仏教からみたら, また、仏教関連の著述者として有名な魚川祐司さんは瞑想する理由と仏教の教説を現代的な意味においてうまく合致させています(なぜ瞑想をするのか――「無心」が開く生のモードについて)。, しかし、一面では『仏教思想のゼロポイント』などの著作に関して、一部の日本仏教の「観念重力空間」から、大いに批判される対象になっているとも告白しています。, だからこそ、自らが実践し、外部の視点から有意義な指摘をなされているのだとおもいます。, 一方、仏教の僧侶は、それほど自由な立場では発言できず、歯がゆい思いをすることも事実です。, 無理やりにでも教義の全能性を信じ、実践することが求められますので(そういう期間は必要だと思いますが)上に挙げたような分析を発言できるまでには、少なくとも周囲に文句を言う者がいなくなる年齢までは待たなければならないのです。, 私自身の経験でも、仏教を実践する前に、その途上で、もっと様々な語られ方を知ってさえいればよかったのに、と感じることがよくありました。, しかし、これからはそのような今まで通りの教義にこだわるのではなく、他分野との交流や仏教内部の更新を促すことが、さらに必要になると思います(内容だけでなく、語り方も含めて)。, 仏教は実践までを見据えたもので、哲学だけでは終わらないもの、であるということです。, もちろん、哲学的な議論によって仏教的な目的を定めることはある程度可能だとは思いますが、それを身体で本当に理解するためには実践が必要となります。, 仏教では、修行には「論と行の両輪」が必要だと言われますが、これを意識していかなければなりません。, しかし、以下のようなものを<哲学>とするのであれば、仏教との間に線引きをおく意味は、特に見当たらないでしょう。, 哲学とは、知識の習得なんかじゃない。変転きわまりない五感的世界から脱けでて、だれもがもっていながら眠らせている「こころのなかの器官や能力を、ペリアゴーゲー(向け変えること)だ」、と(プラトン 『国家』)。, <今ここ>の儚い瞬間に在ることが、永遠の相貌をたたえた≪それでもなお滅びざるもの≫にほかならぬことに気づいてしまう。, 名前:本寝坊主 仏教は『慈悲の教え』といわれます。 そこで「慈悲」と「愛」の違いをお話します。 世間一般では、仏教で「慈悲」といわれるものを、キリスト教では「愛」というのだろう、と思っています。 しかし両者は本質的に違います。 どう違うのか、明らかにいたします。 正しい努力ってこういうことだよね?・・・etc 釈迦さえいれば一発で解決することが、弟子によって考えが違うため、まとまらなくなってし … 「仏教って宗教よりむしろ哲学ですよね」 と他分野の方々から聞かれることがよくあります。 個人的には宗教であるといってもいいと思うのですが、おそらく「宗教」という言葉に含まれるマイナスイメージがそう言わせているのでしょう。 確かに仏教には哲学的なものがありますし、知的議論を戦わせてきた長い歴史もあります。 私も哲学は好きな方なので楽しいのですが、仏教を哲学として語る際にいつも思うことがあります … 正しい生活ってこういうことだよね? 3. コメント. ──先生のご専門の「インド哲学」というのは、簡単に言うとどういうものでしょうか。 立川一口で言うのは大変難しいんですが、分かりやすいところで言いますと、例えばキリスト教の場合は、神が世界を創り人間を創った、とされています。つまり神と人間と世界というものがあって、神だけが聖なるものです。人間は神の道具であり、世界もまた人間の生活のために神が与えてくれた素材、道具と考えているわけです。神と人間の間には非常に大きな隔たりがあるんです。 ところが、インド哲学の考え方 … ©Copyright2020 仏教のアレ.All Rights Reserved. 仏教とヒンドゥー教の違いは何ですか? ヒンドゥー教はアートマンの中からブラフマーの存在を理解することであり、それはおおよそ「自己」または「魂」を意味しますが、仏教はアナトマンを見つけることです-「魂ではない」または「自己ではない」。 仏教と仏教哲学の違いは何ですか? 仏教は宗教仏教哲学は仏教の底流にある哲学、あるいは仏教という宗教を考察対象とした哲学だいたい、こんなところだと思います。 思想・哲学・宗教の違いを図解して整理してみました。最大の違いは「価値や存在の根拠」を何に求めるか、ということです。真理を追求するという共通目的を実現するアプローチ・過程において明らかな違いがあることを認識することが、哲学・宗教を学ぶ第1歩となります。 正しい見方ってこういうことだよね? 2. 仏教を「哲学」ととらえる向きもあります。特に学究的に研究する学者や専門家に多い傾向です。しかし仏教は、知的作業によって概念化された哲学ではありません。 全て「体験に基づいた」ものです。 コメント. 仏教哲学(ぶっきょうてつがく) [要追加記述] 。 仏教は、インドで紀元前6世紀に釈迦が創始した宗教であり、ひとつの学問体系であるといえる。 しかし、釈迦の説いたのは、それまでのインドの思索や体系、また価値観と不可分である。 関連記 … 仏教と哲学の違いとは? その弁護士さんが、ある時こんなことを言っていたことを覚えています。 「哲学は答えの無い学問と言われるけれど、仏教を知ると哲学が完成してしまいますね。 仏教とヨガの違いは「信じるか?」「考えるか?」 仏教や禅を知ることでヨガをより理解し楽しめる ヨガは哲学? そもそも仏教は宗教です。ではヨガは宗教なのでしょうか? その視点で考える時、前述したとおり、ヨガは「6派哲学」の1 仏教まとめ(ウパニシャッド哲学、ブッダ、大乗仏教まで) 古代インドにはバラモン教という宗教があった。 バラモン教は現在の仏教とヒンドゥー教の原型である。 バラモン教は現在の仏教とヒンドゥー教の原型である。 やがてバラモン教の一つの流派としてウパニシャッド哲学が生まれる。哲学という名前がついているように、ウパニシャッド哲学は宗教というより哲学に近い。 ウパニシャッド哲学. line. 日本人の宗教は何か?と問われると主に仏教だといえます。 家の周りにはお寺はある、墓地には仏教に基づくお墓がある。 そして、お盆やお彼岸などの行事も仏教に基づくもの、祖先をおまつりする仏壇 … 私はなぜ 「仏教は宗教・哲学どちらか」を知りたがる、または決めたがるのだろう? と、仏教的な問いを活用するのであれば、それは哲学でしょう。 その問いかけの中に、生き続けるのであれば、それは宗 … 日本の「仏教」とは?「13宗派」の違いと歴史や特徴も解説. 仏教(ぶっきょう、サンスクリット: बौद्धधर्मः、英語: Buddhism )は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、もしくはガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。 仏陀(仏、目覚めた人)の説いた教えである 。. 宗教ときくと、「どれでも究極的には宇宙の真理を教えられているのだろう」 「それをある宗教では神といい、ある宗教では仏といっているのだろう」 と思っている人が、日本人にはたくさんあります。 本当にそうなのでしょうか? (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 個人的には宗教であるといってもいいと思うのですが、おそらく「宗教」という言葉に含まれるマイナスイメージがそう言わせているのでしょう。, 確かに仏教には哲学的なものがありますし、知的議論を戦わせてきた長い歴史もあります。, 私も哲学は好きな方なので楽しいのですが、仏教を哲学として語る際にいつも思うことがあります。, それは当たり前で、お釈迦さんは「苦の滅尽」の方法を説いたのであって、論理的に緻密な「哲学」を語るのが最初から目的ではなかったのです。, お釈迦さんの死後になって、アビダルマや中観や唯識など、いわゆる複雑な理屈を作りだす方向に向かいましたが、 はじめに本項は仏教を理屈でかつ分かりやすく解説することが目的です。専門用語は可能な限り使わず、具体例に即したものにします。仏教哲学とは仏教の哲学的な解釈です。対象となる仏教および解釈する哲学によってその内容は変わってきます。本項では一般的な コメントをキャンセル. ウパニシャッドは二つの重要な教えがある。 梵我一如� 真理とは「ほんとうのこと」を意味する言葉です。 真理という言葉は、様々なところで利用される言葉で、真理の意味するところはその使われる分野によって変わってきます。 宗教や哲学、数学でも利用される真理という言葉の意味を解説しますが、特に日本人の価値観に大きな影響を与えた仏教での真理の意味を中心に解説し、その他の宗教・学問の真理との対比をしていきます。 真理とは何かを宗教的・哲学的に解説すると聞いて、難しい内容かと思われている方は心配はいりません。 なるべく簡単でか … 今回は「自己」を中心に見ていきます。 インドでは「自己」についてどのように考えていたのか。 そして哲学と瞑想という実践との関連とはどのようなものだったのでしょうか 仏教との関連で永井均さんの〈私〉の哲学を何回か取り上げました。 そこでは〈私〉という一見わかりにくそうな議論が続いていますが、インド哲学の視点から見ると、同じとはいかないまでも参考になる議論があります。 特に「自己」についての話は、仏教を含めたインドの思想一般を見る際にとても重要です。 今回は詳細につい … 量子力学の中でで必ずコペンハーゲン解釈や多世界解釈など何らかの解釈が出てくるが、あれは量子力学の項目の中でも触れたように科学とは違う。 あれは科学と関連した哲学、もしくはその人の持つ信仰と言った方が正確である。 なぜなら科学というのは基本的にものがどのように動くのかを研究する学問であって、それ以上の意味はないからである。 もし純粋に量子力学を"科学的"に考えた場合、そこに解釈は存在しない。 ある解釈を否定する見解すら存在しない。(数式に反したものであれば別) 実験と … 思想・哲学 2020.03.30 lismile 「大乗仏教」とは?菩薩との関係や「上座部仏教」との違いも解説.